父とダンスと私とハグ

父と私は仲良しだ。
よく話もする。それも世間話に留まらず、父の幼い頃の話(多分、他の誰も知らない話)、さらに宗教的な話、魂系の話、そして、最近は趣味も同じダンスなので、ダンスの話などもする。

父親とは産まれて最初の「外側の人」すなわち、自分にとってのワールド。父親の事を大好きだと言う「ワールド」を持てている事をとても光栄に、ありがたく思う。

父が社交ダンスを始めたのは68歳だった。
お父さん、いつまで続くんだろう?
私たち姉妹は、クスクス笑ったものだった。

踊りを踊った事のない60台の男性が、西洋のステップを踏むのだ。しかもディスコもクラブもなく、リズムにのって体を動かすという事そのものがなかった時代の男性にとって、社交ダンスはきっと大きな挑戦だったと思う。

何が父をつき動かしたのかは知らない。
多分「ああ、近所の誰々さんも習ういうたさかい、つきあいで」
みたいな事かもしれない。

実家へ帰るたびに、決まった曜日にはダンス用のシャツを着、デオドラントの心配をし、シャキっとした格好で嬉しそうにダンスにでかける父を見るのが大好きだ。

父は、どのように踊るのか、帰るたびに少しづつ見せてくれる。
最初は大笑いしたダンスだったが、数年経つと上手になってきて驚いた。

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2005年頃、一度LAに遊びにきた事がある。その時、両親をクイーンエリザベス号に連れていった。
「社交ダンス場もある」と言う情報を仕入れるや否や、「どこやろ?どこやろ?」と言う父と見つけた、豪華船内の「Ballroom(社交ダンス場)」

立ち入り禁止にはなっていなかったが、営業をしてはいなかったようで、電気も消えていた。
「うわぁー、ホンモノや!すごいなあ。ホンモノの社交ダンス場や」
と感激しまくるので
「お父さん、踊ってみせてよ」というと
「ええんかな?ほんまかな?パートナーおらんけど、ええか?うわあ、ワシ、光栄やなあ〜」

そういうと、恥ずかしさなどはまったくなく、ただ無邪気に「やってみたい」という子供のように、ホールの中でステップをふみはじめた。
それが驚くほど上手になっていて、背筋もしっかりのびていて、父はキラキラと輝いていた。

母もトムも私も、凄く嬉しくなった。その昔、笑いのネタだったお父さんのダンスは、一瞬のうちに自慢のダンスへと変わった。

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私は、小さい時からバレエなどを習わせてもらい、18歳から後、プロとしては上手ではなかったけれども、断続的にずっと踊っていた。体を壊して左足の神経がマヒしてから、10年は、一切踊っていなかった。もう一生ぶん踊ったし、淋しさもなかったので、もうダンスは充分だと思っていた。

が、3年前、ファイブリズムという感情リリースのダンスと出会い,もう一度踊り始め、それを父に話した。

「お父さん、私ねえ、この年になってもう一度踊るなんて思わなかったよ」

「何を言うとんや。いくつになっても遅いと言うことはあらへん。お父さんはな、68歳から始めたんやぞ。もう12年のベテランや。ベテランにしては上達は遅いけど、そんでも上手になったぞ〜」

そんなこんなで、電話でもダンスの話題になる。
「今はチャチャチャを習うとるんや」
自転車の修理をしながら、CDラジカセでサンバなどのラテンの曲をかけている。

1月に帰ったときも、
「習ってるやつ、踊ってみせてよ」
というと、テレもせずに、よっしゃ。靴下やさかい、ちょっとすべるけど、などと言いながらステップを踏んでみせてくれた。

私が目の前で覚えて、じゃあ、一緒に踊ろうか、と、父と一緒に手をつないでペアダンスを居間のテレビの前で踊った。
「お前はさすがに若いだけあって、覚えるの、早いなあ」
「若くはないけど、そりゃ昔は仕事でやってたから、これくらい覚えられるがな」
などと言いながら、二人で10分ほど、踊った。
キッチンで夕飯を作っている母親の顔が嬉しそうにほころんでいた。

私はダンスを踊れてよかった、と思う。
父がダンスを習ってくれてよかった、と思う。
こうやって80を過ぎた父と、一緒に踊れるなんて。。。
ダンスやハグをはじめとしたスキンシップは、きっと人間を元気にする。

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話はそれるが、私が実家へもどると、「アメリカ式〜」といいながら親をハグする。
最初は戸惑いながら逃げ腰だったのが、今は楽しんでしっかりと抱きしめ返してくれる。これが恒例行事になった。
思えば、娘を抱きしめるなどという行為は、日本ではティーンになった頃から後は、ぜんぜんないと思う。
今は、嬉しそうに嬉しそうに、きつく抱きしめてくれる両親や叔母。
これだけでも、アメリカで住んでてよかったな、と思う。

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現在81歳の父。
以前よりもキュートになり、以前よりも杉良太郎系セクシーな流し目の目線などをするようになり、その奔放さと、人間の無限の可能性に、おどろかされている。

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怒りにまつわる考察

アンドレア・ジュハンの「残忍なハート(Ferocious Heart)」と名付けられた「自分の怒りと向き合う」ワークショップに出て、感情と身体がますます密接である事を再認識した。

感情が身体(姿勢)を作り、
また逆に、姿勢も感情を作る。
そして、感情と身体をつなぐものは呼吸。

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【怒りは無くなるモノ?】

時々「もう怒りを超えた」と言う人がいる。
「私には怒りはない。もう怒りはわき起こって来ない。克服した」と。
それを聞くたびに、不思議な気持ちになる。本当にそうなのかな?
本当はあるものを押し殺していてたり、押し殺しすぎて麻痺してたり、あきらめたり、そんな事もあるかもしれない。

感情とはエネルギーであり、なくなりはしない。
人にぶつけるかぶつけないか、で、自分の評判に差は出る。(笑)
うまくさばけるか、さばけないかで、自分の気持ちに差が出る。
年を取るにしたがって、同じ怒っていても、上手く怒れるようになる。

または、考え方のリニューアル」をした事により、今まで気にして些細な事で怒ってた事が「どーでもいい事」にかわる。これ、案外大事。新しい考え方を知り、それによって「A-Ha!モメント」がやってくると言う事。

怒りのない人というのは本来存在しない。
怒りのない人はパワーもない。
怒りとは、サバイバルのためのエネルギー。
怒りはやる気の炎。活力を生み出しているのだ。
まさに、立ち上がるためのガソリンであり、炎のエネルギーである。

感情は「良い悪い」で別けられるようなシロモノではなく、
喜び、怒り、悲しみ、慈しみ、楽しみなど、全てがひとつのフルコースになって、エネルギーとして自分の身体の中に入っている「仕組みの様なもの」だと思う。
私たちはそのフルコースがベルトコンベアーで運ばれてくるのを、味わう。人間だからこそ出来る楽しみ。

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【西洋人にとっての怒り】

西洋人にとって、怒りは「タブー」である。
はっきりとモノを言うので、怒りも表現しそうにみえるが、言うのは意見であり、彼らが反対意見を言うときは、案外フラットに、ナチュラルに、感情を込めずに語る。

長く住んで、西洋人とつきあえばつきあうほど、怒りがタブーな事を思い知らされる。
彼らにとって、怒る事は「知的でない事」
そもそもの問題を作った「間違いを犯した人」よりも、
「怒る人」のほうが嫌われ、責められる。

それを知らずに、来て数年は、約束を守らない人や時間通りに来ないバス、働きたくないという従業員や、責任をとらない店相手に怒りまくっていた。
連日キレまくっていたところ、多くの人に「アンガーマネージメント(怒り制御のセミナー)いったほうがいいんじゃない?」と言われた。

そりゃ怒りん坊だけども、一般の日本の考え方や、上司としてのダメ出しからすれば、ごく普通の事。
日本でアタリマエの事が、アタリマエには出来ないアメリカ。
カスタマーサービスなんて、日本の一番下っ端のサービスでもコチラでは最上レベル。
マジで。

ここアメリカは「許し」の社会。
私はアメリカで「許す事」をいっぱい学んだ。
それは怒りん坊の自分には大きな収穫だった。

「間違っている事を許す」のではなく、「文化の違い」を知ると、簡単に許せる。が、日本の物差しで測ったまま許すのは、大変な労力。

逆に、そんな社会に慣れているから、西洋人は「自分には怒りはない」と言う。
先出のアンドレアのワークショップでは、一日目、9割以上の西洋人が「私には怒りがないから出し方がわからない」と言っていたが、さてさて、3日目、皆、怒りまくっていた。ほおら、エネルギーとしての怒りは、皆、持っている。

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【何故、日本人はキレるか?】

日本人は、そうとう貯める。貯めて、貯めて、貯めて、もう許せない!となったところで、フザケるんじゃない!なんでわからないのよ!とキレる。
日本人同士で、この会話をよく聞く。

私にはお互いのコミュニケーションミスか、または秘密さぐりあてゲームに見える。早いうちに対処しとけばよかったのに、わかってね、ごっこで「こう思ってたのに、のに、のに」と自分の気持ちの決定権を相手に委ねている。
さぐりあてる心のゲームはおっさんレディな私には面倒くさい。

それに、途中からイジワルになっちゃう人もいる。
「注意なんてしてやるものか!教えてなんかやるものか」的な気持ちになり、最後は相手の失敗を見届けて「ほら見た事か!やっぱりね!」と怒って、相手を責める。
本当は何だってよくって、単に相手を責める原因を探してる事に気付いてない。対処しないで、わざわざ相手に罪を作らせちゃうんだな。こういうのをコンババ(根性がババァ)という。

実のところ、「私をわかって」というのも甘えであり(外国人には不思議とコレが少ない)、誰もわかってなんかくれないのだ。それぞれがそれぞれのシチュエーションをかかえている。
自分に手一杯。他人の事をわかってあげようなんてヒマあったら、自分を解るために時間使えよ、と今なら思う。

【アメリカ人は額面通り】

アメリカ人相手には、どうか?
私の知っているアメリカ人達は、そこまで怒る前に、どうしてワーニング(注意)してくれなかったの?という。
そんなん、しなくったってわかるでしょ!?と思う日本人。
いや、1から99まで言わないとわからないのがアメリカ人。

「いくら、”いいよ”って言ってもねぇ〜、いいよ、の割合を察して欲しいよ。コッチは無理してるんだから!」
も絶対に通じない。
そんなアメリカ人相手に、無理しちゃ、「損」なのだ。
「言ったまんま」額面通りに受け止める彼らに、「察する」なんて芸当は、ほぼ無理なのだ。単に文化が違うのだ。

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【こうである”べき”に忠実な日本人】

人の意見は10人10色。10国20色くらい。
そのなかで「こうである”べき”」という言葉を日本人から一番よく聞くような気がする。

「Nさんは、ちゃんとするべきでしょうっ!?」と、他の人の事を私に切れられる事もある。
「いや、私はNさんじゃないからワカラナイよ」と、ここで、ワカラナイなどと言うと
「どうして、あなたまでわからないんですかっ!」とキレられた事もある。
完璧な ”もらいキレ”。

この時の「べき」は、アメリカでは(他国では)一切通用しない。戦争すべき、やめるべき、という定義すら国で違うというのに、一人の行動を「こうであるべき」なんて、いったい誰が言えるというのだ?

絶対正義に固執していると、たとえ絶対正義があったとしても、固執している側がツライ。
その国によって、人によって、その場によって、最善の策なんて変わるのだ。

そう考えると「不必要な怒り」も少しは減る。

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【怒りはエネルギー】って言ったじゃん。それはどうなるの?

そう、怒りはエネルギーだし、自分の中にあるもの。
その矛先を、どこにむけるかが大事。
自分のエネルギーであって、まわりに起こる事は全て ただの引き金。

怒りのエネルギーを上手に利用して、世の中の向上を計るもよし、
なんで自分は下手なんだ!という自分への怒りを利用して、うまくなりたい!と必死に練習して何かを上達させるもよし、
セックスでそれを燃えさせるもよし(怒りは炎だからね)。

ま、そんな感じ。

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【日本人が特殊】

アメリカ人、と書いたが、そこにはフランス人もブラジル人もいると思う。ようは、日本人(コリアンなどの一部アジアンも含む)以外の人を総称してアメリカ人、と書かせていただいた。

大概が、とうてい日本からは「変な常識の人」かもしれない。
が、裏返してみると、「日本の常識の一部がある意味特殊である」かもしれない、という事を、ここ15年ほど感じている。

妙に隠すしね、いろんな意味で。いろんな所で。

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失礼しました。理屈コイてしまいました。