「わかる?」「わかんないよ」

わかってもらいたい。
わかってくれない。
うん、それ、わかるよ。
ねえ、わかってくれる?

ごめん、サポートはするけど、私には完全にはわからない。

人は大きくは一つで、ワンネスであるという前提は別論点なので今は一人一人のカラダをもらった「自分」という観点から。

人はそれぞれに違う役割とカラーを持って来てるから、わからなくて当然。
わかったら偶然。もちろん偶然は必然。

たとえば身体で言うと、大きくは一つだけど、肝臓には肝臓の役割があり、ヘソにはヘソの、足の指には指の、爪には爪の役割がある。

心臓が目に「どうしてポンプを送ってるのをわかってくれないの?」といわれても、目は「だって私はただ、自分の視界に入ってくる事を処理してるだけだから」と言うのと同じで、目が心臓の事をわかっちゃったら目としての機能が滞るんじゃないかというような屁理屈を加えつつ。。。

「わかってほしい」というのは、

 *パーミッション(許可)が欲しいのだ。
 *そして特別な理由を認めて欲しい(特例だと認めて欲しい)のだ。
  — 特例を認めてというあたりでワンネスは崩れてる事に気づく事もなく
 *そして、よくやってるね、と褒めて欲しいのだ。

本来は全員がそれぞれに役割が違うのだから、全くわかる事は無理で、互いの働きを誉め称えるしか出来ない。
わかろうと努力する事にのみ時間を費やしたり心を砕くのは案外もったい。

それより、自分のすべき事を今、一瞬、がんばってやればいい。
そしたら他人の働きも認められるのだ。

大体において自分の事を一生懸命やらない人ほど他人を悪く言う。
自分に必死だと、人の事なんて言えない。(スポーツ観戦に熱狂する人の中で自分は実際やらないのにプロを捕まえてアイツはダメだとか言うのと同じ論理。ある程度努力した人はやたら人を斬れない)

自分で本当に100%一生懸命やってる人は
「わかってほしい」とは言わない。
自分が自分をわかってあげているから、他人からの許可や評価がいらない。

恋に落ちる瞬間なんかは「わかりあえる」溶けちゃう感がタマラナくエクスタシーなんだけども、通常の生活の中では相互理解のために自分を説明するのは有効でも、「わかって欲しい」という甘い期待の元でこれをやると、「わかってもらえない=マイナス」となり、

傷つく → 相手を攻める → こじれて孤独に

と言うダメ雪だるまにハマる可能性がある事を覚悟しておいたほうがいい。
これを「ドラマ」と言う。

ドラマは文字通りドラマチックに自分を翻弄し、ヒロインになったかのように自分を被害者にし、「こんなにがんばってるアタシ」を作り上げる。
だがそれは、わかってもらいたいという、依存的な甘えから「自分が作り出した結果」である事を理解したほうがいい。

 
なんて書く自分は、冷たいんだなあ、きっと。。。
( ↑ 本当は冷たくないのよ、と”わかって欲しい”らしい 笑)

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