ドラマクイーン

英語では「ドラマクイーン」という言い回しがある。

日本語で一番近い言葉があるとするならば「悲劇のヒロイン」

英語でのドラマクイーンのドラマは、
悲劇だけに特化しない。

娘の自慢話も、大変だったことも、笑えることも、素晴らしいことがあったことも
人生をドラマのように捉え、自分はその主役。

どれだけ大変か、どれだけスゴイか、
表現しないと死んでしまう、くらいな勢い。
(人は表現する生き物なので、それはある意味、素敵だと思う)

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人にはそれぞれのドラマがある。
ドラマのない人なんて、一人もいない。

だけど、ドラマクイーンは
「自分のドラマが一番すごい!」と思っていること。
そして、自分以外にはこんなドラマは存在しない、と思っていること。

大概が
「もう、ちょっと聞いてよ〜〜〜〜!」から始まり
様々なディテールに及ぶまで話した上、
「わかるわぁ〜、ウチなんてさ〜」
と同調しようと思って行ったが最後
「ウチとあんたのところと一緒にしないで」的な態度に出
最後には、言うだけ言ってセイセイすると
「アタシ、忙しいから帰るわ。じゃね!」

となるのが通常である。

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実際、物語自体は中庸で
「出会いました」とか「別れました」「病気が治りました」「怪我しました」という
単なる事実なんだけど

それらが自分の感じ方一つで大きなドラマ(物語)となる。

ということは、感じ方の揺れが大きい人であればあるほど
そのドラマはダイナミックになる。

ドラマはドラマだ。

上も下もない。

指を切った痛みと
人を失った痛みと
それらに優劣はないのだ。
どちらが上か、下か、
どちらが辛いか、やや楽か
なんてないんだ。

だが、ドラマクイーンっつーのは
「アタシが一番大変!」
ってところを振りかざし、
エネルギーぶるんぶるんに振り回す。

面白い人がドラマクイーンやってくれると最高に笑える。

が、愚痴のドラマの場合、
こっちが嫌な気持ちになるだけでなく、時間の無駄。

そんな時は
「あら、人生大変なのね〜」
と言って、なるべくそそくさと去る練習をした方がいい。

それはドラマクイーン側の課題ではなく
こちら側の練習課題。

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今日もハッピーで行こう!

その人のプロセス その1

色んな苦悩が、その人、その人、個人のプロセスであるという事を「体が」理解できるようになってきた昨今、誰が何を相談しにこようが、軸がぶれにくくなってきている。

人はみんなドラマを持っている。
お姑さんドラマ、ご主人ドラマ、子供ドラマ、失敗ドラマ、成功ドラマ、自慢ドラマ、不幸ドラマ、、、
それらのドラマは、人を介しているだけで、すべて、ドラマの語り手の中にあるのだということを、大概の語り手は気づいてないのだ。

誰が一番不幸か、不幸自慢をした時代もあった。それらのことをメロドラマ、シャンソン好き、と今や言いながら笑っている。

「ねえ、聞いてよ、これがアレでさ〜、こうでさ〜〜」
「あ、わかる〜〜!」
「だよね〜〜」
という共感が嬉しい部分はあるにせよ、
そこに留まると、何も生まれない。

ドラマのことは今度書く。

私が彼女/彼の肩代わりをして人生を生きてあげられるならともかく、(いや、生きてあげるとしたらその分少なくともギャラは欲しい)生きてあげられっこないんだから、一緒に悩むというのは、もうある意味古臭いのだと、私は思うんだ。

しかも、そのドラマに付き合わせられている間、時間のムダってモンだ。私の人生、短いんだしさ、人のドラマに付き合ってるほどヒマじゃない。
私の場合、そのドラマの内容に自分の興味がそそられるか、もしくは勉強になりそうなケースでなければ、付き合わない。(そういうのはカンでわかる)

それを、冷たいんじゃないだろうか?と思った若いころもあった。
いやいや、それは冷たいんじゃない。
それが、自然なんだと思う。
だって、お花だって木だって、共倒れしたらたまんないっしょ?

ってか、聞きたきゃきけばいいし、一緒に泣きたきゃ泣けばいいし、
人それぞれなんだけども、

5リズムをやるようになってから、一つ学んだこと。

「放っておいてあげなさい。準備ができたら自分から立ち上がってくるから」

これが5リズムの姿勢である。

 その2に続く

「わかる?」「わかんないよ」

わかってもらいたい。
わかってくれない。
うん、それ、わかるよ。
ねえ、わかってくれる?

ごめん、サポートはするけど、私には完全にはわからない。

人は大きくは一つで、ワンネスであるという前提は別論点なので今は一人一人のカラダをもらった「自分」という観点から。

人はそれぞれに違う役割とカラーを持って来てるから、わからなくて当然。
わかったら偶然。もちろん偶然は必然。

たとえば身体で言うと、大きくは一つだけど、肝臓には肝臓の役割があり、ヘソにはヘソの、足の指には指の、爪には爪の役割がある。

心臓が目に「どうしてポンプを送ってるのをわかってくれないの?」といわれても、目は「だって私はただ、自分の視界に入ってくる事を処理してるだけだから」と言うのと同じで、目が心臓の事をわかっちゃったら目としての機能が滞るんじゃないかというような屁理屈を加えつつ。。。

「わかってほしい」というのは、

 *パーミッション(許可)が欲しいのだ。
 *そして特別な理由を認めて欲しい(特例だと認めて欲しい)のだ。
  — 特例を認めてというあたりでワンネスは崩れてる事に気づく事もなく
 *そして、よくやってるね、と褒めて欲しいのだ。

本来は全員がそれぞれに役割が違うのだから、全くわかる事は無理で、互いの働きを誉め称えるしか出来ない。
わかろうと努力する事にのみ時間を費やしたり心を砕くのは案外もったい。

それより、自分のすべき事を今、一瞬、がんばってやればいい。
そしたら他人の働きも認められるのだ。

大体において自分の事を一生懸命やらない人ほど他人を悪く言う。
自分に必死だと、人の事なんて言えない。(スポーツ観戦に熱狂する人の中で自分は実際やらないのにプロを捕まえてアイツはダメだとか言うのと同じ論理。ある程度努力した人はやたら人を斬れない)

自分で本当に100%一生懸命やってる人は
「わかってほしい」とは言わない。
自分が自分をわかってあげているから、他人からの許可や評価がいらない。

恋に落ちる瞬間なんかは「わかりあえる」溶けちゃう感がタマラナくエクスタシーなんだけども、通常の生活の中では相互理解のために自分を説明するのは有効でも、「わかって欲しい」という甘い期待の元でこれをやると、「わかってもらえない=マイナス」となり、

傷つく → 相手を攻める → こじれて孤独に

と言うダメ雪だるまにハマる可能性がある事を覚悟しておいたほうがいい。
これを「ドラマ」と言う。

ドラマは文字通りドラマチックに自分を翻弄し、ヒロインになったかのように自分を被害者にし、「こんなにがんばってるアタシ」を作り上げる。
だがそれは、わかってもらいたいという、依存的な甘えから「自分が作り出した結果」である事を理解したほうがいい。

 
なんて書く自分は、冷たいんだなあ、きっと。。。
( ↑ 本当は冷たくないのよ、と”わかって欲しい”らしい 笑)