加速する覚書き

春分が過ぎて、自分のやることがポンポン投げてこられる。
こうやろう、ああしよう、とか思わなくても
来たものを、好きか嫌いかで決めて、行動するかしないかを決める。

すると、トントンと進む。

今まで能動的にやってきた結果として、
いろんなことがトントンと進むのだ。

その加速が半端じゃない。

だから、
来るものに委ねる。

受け身ではない。
蒔いてきた種が伸びてきて、
ちゃんと間引きをしながら
来たものを、自分の勘に従ってやっていく。

それに加えて、
「やりたい!」と思ったものは
たとえ新しいことでも、自分から「やりたい」と言う。
「時間がないから」とかは理由にせず、
むしろ、それは来るものよりはるかに優先する。

面白いことに、
今までやりたかったのに出来なかったことが
今になって
「ほら、やってごらん!」と差し出されている。

今まで「やりたいのにー!!」とあがいていたことが、
今になって「ほら、やりなさい」と。

だから、
若い人で
「やりたいのにーー。何も実現しないーー!」と思う人。

思いっきりあがいたらいい。

その「時」は必ず来る。

そして、今思うに、
その「時」は「自分で作れる」

自分があったベクトルに動いていれば
必ず、うまくいく。

うまくいかないのは
心のベクトルが違うからだ。

うまくいかないのは、
自分でブレーキをかけているのに
同時にアクセルを踏んでいたからだ。

ブレーキとは、

心のブロックであったり
過去の傷であったり
エゴであったり
恥ずかしいと思うことであったり
覚悟のないことであったり
怠け癖であったり
私なんか、という卑下であったり
自分を愛せないことであったり
自己批判、自己否定であったり、、、

私にはとても難しかった。

だけど、これらを外すと
やりたいことが軽く回り始め
そのうち、加速してくる。

で、これらのブレーキは「悪」ではないこと。

この反動がすごい強みになる。
だから、あがいている時は抜けようとせずに
この自分のブレーキたちとしっかり向かい合えばいい。

ループにハマれ、という意味ではない。
だが間違いなく、深く向かいあった人ほど、
強いように思う。

そして、最高の「結果」を求めたかったら
「結果」を求めるのではなく
「プロセス」に生きることだという
パラドックスも体験する。

おもしろいねーー!

元の目的は?

リビングから冷蔵庫へ、
例えば「醤油」を取りに行くとする。

冷蔵庫へ着く頃には
はて?なぜ私は冷蔵庫前にいるのだ?
何を取りに来たんだっけ?

ということはありませんか?

「ようこそ、ボケの世代へ」
と誰かが言っていた。

これは
もともとの目的がすり変わり
「冷蔵庫へ行くこと自体」が目的になってしまった例だ。

実は同じように、
日々の中でもこういうことがよくある。

〜 〜 〜

「彼氏が欲しい」から
「痩せたい!」のに

気がつけば
「痩せること」が目的になり、
どう考えたった愛されないような
異様なガンバりかたをしたり
出会いの場へ行くことを惜しんで
もっともっと、とダイエットや自己鍛錬して
チャンスを逃したり。。。

〜 〜 〜

仲良く長生きしたいから「健康になろうと決めた」のに
健康論議で喧嘩をしてしまう老夫婦がいたり

「健康のためなら死ねる!」

的な不思議な考えに陥ったり

〜 〜 〜

幸せになりたいから
この壁を超えたかったのに

「壁を越えること」
「困難を克服すること」
自体が目的にすり替わっていたり。

〜 〜 〜

”1日を有効に使いたい”から
早起きして、
これとこれをしよう、
ルーティンを決めたのに
必死で早く起きて、
ルーティンをすること自体が目的になり
それ「のみ」が日々の日課になり
疲れて他のことがおざなりになったり。。。

〜 〜 〜

すべてそう。

これをやっていたら、
堂々巡りなんだよね。

そして、ヤバいのは、この堂々巡りのプロセスって
案外「生きてる感」があるので
そこにハマりやすい傾向がある。

・・・

時々、もともとの目的を
言い聞かせる必要がある。

なぜやるか?
何のためにやるのか?

それをリマインドすること。

その人のプロセス 2)

その人のプロセス 1から続く

クラスの中で誰かが泣いている場合があるとする。

「大丈夫?大丈夫?」って行くのは、
「大丈夫?」って行く人が、
「誰かを助けていなければ自分の存在価値を認められない」
という問題がある人が多い。

もし、心がドバーっと開いて泣いているんだとしたら、
その気持ちを一人でしっかり味あわせてあげるべきだし、

本当に、心の底から苦しみが出てきたのだとすれば、
同じ苦しみを知っている人ならば、そっとしておくはずだ。

「かまって光線」を出して泣く場合の人がいたら
そんなものに「大丈夫?」って行くのは、女子高生ノリだし、
義理を果たすというだけの「ウソ」を育てる。
だから、なおさら放っておいたほうがいい。

〜〜〜

そういう風に訓練されているので、
私は「ああ、ただいま、彼/彼女 は プロセス中なんだなあ。。。」
と思うのであって、

たとえそこでその彼/彼女が号泣していようと、
彼らには泣く必要があるのだ。
たとえ今、彼らにわからなくても、
彼らには今、わからない必要があるのだ。

そこをジャマしてはいけない。

そもそも、人はそこを学ぶために生きてるんだ。
人の学びをジャマしてはいけない。

それは、境界線を超え、土足で人様の家に入っていくようなモノだから。

助けてはいけないのではない。

「本当に助けるというのは、
その人が自分のタイミングで、
自分の足で歩けるようになるのを
ずっと我慢強く見守るということだ」

その人のプロセス その1

色んな苦悩が、その人、その人、個人のプロセスであるという事を「体が」理解できるようになってきた昨今、誰が何を相談しにこようが、軸がぶれにくくなってきている。

人はみんなドラマを持っている。
お姑さんドラマ、ご主人ドラマ、子供ドラマ、失敗ドラマ、成功ドラマ、自慢ドラマ、不幸ドラマ、、、
それらのドラマは、人を介しているだけで、すべて、ドラマの語り手の中にあるのだということを、大概の語り手は気づいてないのだ。

誰が一番不幸か、不幸自慢をした時代もあった。それらのことをメロドラマ、シャンソン好き、と今や言いながら笑っている。

「ねえ、聞いてよ、これがアレでさ〜、こうでさ〜〜」
「あ、わかる〜〜!」
「だよね〜〜」
という共感が嬉しい部分はあるにせよ、
そこに留まると、何も生まれない。

ドラマのことは今度書く。

私が彼女/彼の肩代わりをして人生を生きてあげられるならともかく、(いや、生きてあげるとしたらその分少なくともギャラは欲しい)生きてあげられっこないんだから、一緒に悩むというのは、もうある意味古臭いのだと、私は思うんだ。

しかも、そのドラマに付き合わせられている間、時間のムダってモンだ。私の人生、短いんだしさ、人のドラマに付き合ってるほどヒマじゃない。
私の場合、そのドラマの内容に自分の興味がそそられるか、もしくは勉強になりそうなケースでなければ、付き合わない。(そういうのはカンでわかる)

それを、冷たいんじゃないだろうか?と思った若いころもあった。
いやいや、それは冷たいんじゃない。
それが、自然なんだと思う。
だって、お花だって木だって、共倒れしたらたまんないっしょ?

ってか、聞きたきゃきけばいいし、一緒に泣きたきゃ泣けばいいし、
人それぞれなんだけども、

5リズムをやるようになってから、一つ学んだこと。

「放っておいてあげなさい。準備ができたら自分から立ち上がってくるから」

これが5リズムの姿勢である。

 その2に続く