役割とアイデンティティ

私たちの中には女性性もあり、男性性もある。
私の中のインナーオヤジはかなり強く、そんじょそこらの男より男らしかったり、私の友人の女性たちは、皆こぞって内側がオッサンでありサムライであり(笑)
また、ウエストハリウッドは世界屈指のゲイタウンにつき、柳腰で歩く男性が50%を占める。

これらはとても正直なコトなのだ。
そして、もっともっと増えていくと思う。
なぜなら、魂に性別はないから。

と、性別のことだけを浮き彫りにするつもりなんてないのであって私が伝えたかったことはこれら、オトコ、オンナというものも単なる役割であるということ。

女、男、娘、妻、姉、夫、父、母、祖父母、長男、日本人、部長、係長、会長、社長、先生、弟、応援団の3年(わかる人にしかわからない)、風紀委員長、歌手、自由人、バンマス、水商売、農夫、地主、親方、ダンサー、サーファー、ボクサー、ファイター、サラリーマン、OL、リーダー、生徒、プー太郎、政治家、負け犬、貧乏人、金持ち、遊び人、、、

ゼーーーーンブ役割。
ゼーンブ自分を限定して安心できるアイデンティティ。

これらのアイデンティティは
「母だからこうあるべき。男だから泣いてはイケナイ。社長が払う」
などという社会的な常識と直結している。

そして、人間の中には、役割だけではなく、5リズムで言うところの性格のアーキタイプ(鋳型)もある。
(興味がある方は5リズムのワークショップ、God Sex and the bodyを受けてね)

しかも、これら役割は兼任しちゃうのね。
一個じゃない。
ようは違った顔を持っているということ。

私は
女であり、同時にアメリカ人夫の妻であり、
日本人の父の娘であり、
フォトグラファーであり、
犬のキキの飼い主であり、
5リズムの先生。

どれも私。
「じゃあ、私の実体は何?どれ?」

実は、仮面に寄りかかりすぎると、それを亡くした時の喪失感はスゴい。

私がカリスマOL(自己申請)だった後、
仕事を喪失した時の、羽のもぎ取られ感ったらなかった。

私が日本でブイブイ言わせたCGの会社の、名前の知れた女だなんてアメリカでは誰も知らなかった。
日本では「CGのイマージュの雅代です」と言えば、それこそD通、H報堂などに名前を轟かせていたのに。

その時もいみじくも思ったのだけれど
「私の実体とは、なんだろう?」

私が私でいるために、
役割とは単なる衣装であって、マスク(仮面)であって、
それらは場所ごとに外すのだ。そして付け替えるのだ。

本当の私とは、限定しない、ワクのない、
常に変動するモノ。

本来の自分に出会うと、痛いほどに嬉しく懐かしくなる。
本来の自分に出会うと、自己が空(くう)に消えてしまいそうになる。

本来の自分に出会うということは
ただ、息を吸って、吐く、
その間にあるモノに戻ることなのかもしれない。

どーだっていい大切なモノに帰る。
どーだっていい愛おしいモノ。
どーだっていい透明なモノ。

それでも人間ってさ、
カテゴライズしてラベル貼って、
自分を納得させたいんだよね。

それもまた愛しい。

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仮面舞踏会

少年隊じゃないのよ。
ハロウィンなのよ。

ハロウィンは仮装をする。
仮面をつけたり、コスチュームを着たり。

私たちの日常も、実はコレ。

「役割」という仮面をつけている。

「お母さん」だったり
「良い妻」だったり
「いい娘」だったり
「しっかりモノのお父さん」だったり
「えらい社長」だったり
「働き者で愛想のいい受付嬢」だったり。

仮面を自分だと思っている場合がある。
また
家に帰った途端、仮面を外す場合もある。

仮面は、とても便利なモノ。

比喩として言うのだけれど、
全部ハダカになってしまうと、とても勇気のいること。
ハダカになれるというのは、とても強いこと。

私たちにその強さがない時、
私たちはとても便利な仮面をつける。

「爽やかなお兄さん」とか
「すごく優しいおばちゃん」とか
「面倒見のいいおっちゃん」とか。

それらがちょっと仮面を外した時
人は
「あの人、変わった」という。

本当は変わってないと思うよ。

私もいっぱい仮面を持っている。
意識的であろうと、無意識であろうと
便宜上、いろいろと、付け替えている。

だけど

自分が 仮面をつけていると知らないで
その仮面が馴染みすぎた時
それは シビレとなる。
外したくてもなかなか外せなくなってしまう。

そして、そんな頃、
自分を限定し始めてしまうのだ。

「私って、こういう人だから。。。」

〜  〜  〜

さて、あなたはどんな仮面をつけてますか?

「わかる?」「わかんないよ」

わかってもらいたい。
わかってくれない。
うん、それ、わかるよ。
ねえ、わかってくれる?

ごめん、サポートはするけど、私には完全にはわからない。

人は大きくは一つで、ワンネスであるという前提は別論点なので今は一人一人のカラダをもらった「自分」という観点から。

人はそれぞれに違う役割とカラーを持って来てるから、わからなくて当然。
わかったら偶然。もちろん偶然は必然。

たとえば身体で言うと、大きくは一つだけど、肝臓には肝臓の役割があり、ヘソにはヘソの、足の指には指の、爪には爪の役割がある。

心臓が目に「どうしてポンプを送ってるのをわかってくれないの?」といわれても、目は「だって私はただ、自分の視界に入ってくる事を処理してるだけだから」と言うのと同じで、目が心臓の事をわかっちゃったら目としての機能が滞るんじゃないかというような屁理屈を加えつつ。。。

「わかってほしい」というのは、

 *パーミッション(許可)が欲しいのだ。
 *そして特別な理由を認めて欲しい(特例だと認めて欲しい)のだ。
  — 特例を認めてというあたりでワンネスは崩れてる事に気づく事もなく
 *そして、よくやってるね、と褒めて欲しいのだ。

本来は全員がそれぞれに役割が違うのだから、全くわかる事は無理で、互いの働きを誉め称えるしか出来ない。
わかろうと努力する事にのみ時間を費やしたり心を砕くのは案外もったい。

それより、自分のすべき事を今、一瞬、がんばってやればいい。
そしたら他人の働きも認められるのだ。

大体において自分の事を一生懸命やらない人ほど他人を悪く言う。
自分に必死だと、人の事なんて言えない。(スポーツ観戦に熱狂する人の中で自分は実際やらないのにプロを捕まえてアイツはダメだとか言うのと同じ論理。ある程度努力した人はやたら人を斬れない)

自分で本当に100%一生懸命やってる人は
「わかってほしい」とは言わない。
自分が自分をわかってあげているから、他人からの許可や評価がいらない。

恋に落ちる瞬間なんかは「わかりあえる」溶けちゃう感がタマラナくエクスタシーなんだけども、通常の生活の中では相互理解のために自分を説明するのは有効でも、「わかって欲しい」という甘い期待の元でこれをやると、「わかってもらえない=マイナス」となり、

傷つく → 相手を攻める → こじれて孤独に

と言うダメ雪だるまにハマる可能性がある事を覚悟しておいたほうがいい。
これを「ドラマ」と言う。

ドラマは文字通りドラマチックに自分を翻弄し、ヒロインになったかのように自分を被害者にし、「こんなにがんばってるアタシ」を作り上げる。
だがそれは、わかってもらいたいという、依存的な甘えから「自分が作り出した結果」である事を理解したほうがいい。

 
なんて書く自分は、冷たいんだなあ、きっと。。。
( ↑ 本当は冷たくないのよ、と”わかって欲しい”らしい 笑)