ダメなの?ダメじゃないよ。

日本、川崎、三島と終わり、
今、山形へ行く途中の新潟のホテルから。

参加いただきました皆様、ありがとうございます。

皆さんの豊かなクリエイティビティに感動したり、笑ったり、
物凄い充実した日をすごさせていただいています。

日本とアメリカと比べて思うことを一つ。
アメリカの人は比較的
こうしたいからする がベースなのに対して

日本の人は
こうしてもいいの?ダメなの?
と思うのが、比較的最初に来ちゃうこと。

それは和を尊ぶ日本のいいところでもあります。
アメリカの人がもう少しそれを持ってくれたらとも思う。

こうしてもいいの?
ー いいんです。

これじゃダメなの?
ー ダメなんてないです。

それでいい。
あなたの、
そのままでいい。

私も
「これじゃダメだ」とずっと思ってました。
でも気づけば、何に対して「それはダメだ」と
思っていたのでしょう?

親? 夫? 世間?
一体だれに?

悟りたい、などと思っていてさえ
いや、まだまだ!これじゃダメだ!
って。

そこで否定すること自体、
悟りから程遠い、と気付いた時に、
邪悪な自分も、オーケーじゃん、
と。。。

自分の中の 邪悪ちゃんや、ダメダメちゃん、
閉じ込めてませんか?

それを出させてあげる許可を自分にあげませんか?

実は、
私の個人的な感想ですが、
5リズムの時に特に思うのですが、
一旦その許可を自分で与えた日本人って、
アメリカ人以上の自由さとパワーがあるように思うんです。

何でしょうね?
民族的なパワーなのかな?
それとも抑えてた反動なのかな?(笑)

いずれにせよ、
そのパワーは、閉じ込めたら勿体無い。

自分が
「これじゃダメ」
って思ったとき、
ちょっとだけ思考を変えてみませんか?

「本当は全然ダメじゃない。
でも、この状況ではこっちの方が適切だから
合わせた態度だけども、
本当は自分の感じ方が全然ダメじゃないことを
私は知っている」

そう考えて臨機応変な反応をし、
自分の中の矛盾は
誰もいないところ、
例えばトイレなどで
スタッカートやカオスを
1分踊って、
体に溜めないように出してあげてください。

落ち込みも、腹立ちも、
弱さも、強さも、
全部オーケー。

ここまで書いといてナンですが
「だめなの?」って思っちゃう自分自身も
全部 オーケー。

どうか、感じるままに。
何を感じているか、
それに気づいて行ってください。

何もダメじゃないから。

何もダメじゃないから。

ベキ主義

アメリカに住んで、とてつもなく自由な放し飼いに14年も慣れると、日本へ戻った時に大きなカルチャーショックにブチあたる。

とくに、ヨガ的な生き方(一般に総称してそう言うが、ヨガをしているワケではナイ)を勉強し、「いまここ」などを目指し、少しソレが出来てきてしまうと、日本へ戻った時には「しがらみ」「気遣い」「空気読めよ」などという蜘蛛の巣に、ガッツリつかまってしまったように感じるのだ。

日本の、全体を見る、先を見る、サッカーのフォーメーションのように二手三手先を読んで行動するのは、脳がフル活性しており、効率のよい生活の手助けとなる。
だからこそ、日本の水準は高いのだと思うが、いつも「勝負状態」であるとも言え、それはストレスが大きい事に慣れてしまっているんだろうな、と思う。
アイルランド出身の友人は「キミらはサイキックか?」と言った。

どちらがいい、という論議はしたくない。
どちらにも理由がある。

☆ ☆ ☆

ゴール至上主義

日本は、ゴール至上主義だと感じる。
ゴールに向けて、皆泳ぐ。(泳ぐ、は例です)
ゴールをゲットしたものが一番いいわけだ。
泳げないものは、人にあらず。
泳ぎたくない、などというものは、生きている資格がない。

泳いでいる間や、泳ぐ前のプロセスよりも、やはり「結果」であり、
その結果如何においては、「責任」をとらされたりするし、「責任をとること」が美しいと思われているが、その責任が、妥当な責任ではなく、いまだ「辞職」だったりして、ハラキリとなんら変わっていない。
ようするに、罰ゲームのまんまで、改善と結びつかない。これはきっと、日本の持つ「恥の文化」と大きなかかわりがあるのではないかと密かに睨んでいる。
恥をかかないために、しっかりしてなくちゃならない。勝つ「べき」なのだ。

☆ ☆ ☆

「あの人は かくかくしかじかする べき でしょ?」
「そうよ。まるまるばつばつ す べき よね」
「しかるべき 態度で、しかるべき措置を」

べきべきべきべき、、、、
〜なくちゃ 〜なくちゃ 〜なくちゃ、、、

英語で言うところの
should do, should n’t do
must to, must n’t do
が、めちゃくちゃ多いのだ。

【英語では。。。】
英語で、これらの should や must を使うと、かなりキツいので、
よっぽどの事が無い限り使えない。
が、私がサンタモニカの某英会話センターで英語を習い始めた時、「〜しなくちゃ」「〜べき」は何て言うの?と先生に必死で聞いたものだったが、先生は、ちょっぴり困った顔で「あんまり使わないんだけど、あえて言うと、、」みたいに教えてくれた。

クラス中に覚えたてのソレを使って、先生の教え方に対して連発すると
「そういう場合は you might want to(こうするのはどうかしら?系)とか、違った言い方を使ったほうがいいわ」と、まゆをピキピキさせながらも、おだやかな口調で教えてくれたものだった。
つまり、私にとって「〜べき」「〜しなくちゃ」は、あたりまえの事だったので、あたりまえに言いたかっただけだったが、英語圏の人にとったら、かなりキツいのだと言うコトが後でわかった。

それくらい、言葉と思考回路は密接で、そんな思考回路に慣れ、さらなるヨガ的訓練も重なり、日本へ帰った時はビックリするのである。

「あの人はうちの駐車場に停めるベキではない!」
「人にやさしくするベキだ」
「挨拶したら、聞こえるような声で返事するベキだ」
「飲み会に参加するベキだ」
「最近の若者は、もっとコミュニケーションをもつベキだ」
「人様に失礼なことをするベキではない!」
「こんな朝早くに電話をかけてくるベキではない!」

全部正論なんだけども、、、

じゃあ、”そうすベキでない”事を「ちゃんと相手に伝えればいいじゃない?」
と言ったら
真っ赤な顔をして怒って
「そんな事、他人に言うベキじゃない!」と言う。
そして
「それくらい、言われなくても自分で気付くベキだ」

いや、わからないバカもいる。
アメリカ人的な考え方をすれば、いっぱい「ベキ」があって、それであなた自身が困っているのに、相手には言わないのって、へんだよね。

私は、わからないバカの種類なので、
「日本ではね、それは非常識って言うんだよ」と言ってもらったらありがたい。
ただ、そこから言われた通りにできるかどうかは別だけれども。

☆ ☆ ☆

「べき」は、理想としては素晴らしいけれど、強制できるものではない。
実は私は、恐ろしいくらいに「べき」ベースで動く人間で、
それで動いていると、すごく疲れる。

だけど「べき」があるほうがヤル気になる反面を持っている事も事実だ。
よくも悪くも、何か課題を課している状態。

自分を少しゆるめる必要があるな、と思うときには、「べき」は一旦まくらもとへおいといて、「〜たい」にするといいと思う。

「〜たい」と「〜べき」って言う音を比べてみても
「〜たい」のほうが、まあるく、やわらかくない?
「〜べき」って、すごく強い音。

意識して使い分けが出来るといいよね。

=====

実は

ご縁あって、メルマガを書かせていただく事になりました。
ページがしっかり出来たら、お知らせさせていただきます。
どうか応援よろしくお願いいたします。

– Masayo